top of page
スクリーンショット 2023-04-01 19.33.13.png

2023年5月21日 日曜日

山﨑修平(やまざき・しゅうへい)

1984年、東京都生まれ。

2017年、第一詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』(思潮社)で中原中也賞候補・小熊秀雄賞候補に挙がる。

2020年、第二詩集『ダンスする食う寝る』(思潮社)で第31回歴程新鋭賞を受賞。

2022年、『現代詩手帖』「詩誌月評」を担当。

2023年、『週刊読書人』「文芸時評」を担当。

 

2015年秋から始まったこの朗読会で、詩人をお招きするのは今回で二度目。山﨑修平さんは、昨年の5月に登壇してくださった四元康祐さんが主宰するポエトリー・リーディングの会にも名を連ねる、若手気鋭の詩人の一人です。

その山﨑さんが昨年末に小説を上梓しました。『テーゲベックのきれいな香り』(河出書房新社)。一読、驚嘆しました。以下、拙いもので恐縮ですが、わたしが文芸誌「すばる」に寄せた書評を転載します。

 

小説を書く詩人は少なくない。でも、わずかな例外を除いて、詩人が書く小説の多くは意外なまでに小説の貌をしている。

わたしは詩における言葉と小説におけるそれは違う、違っていてほしいと思う派だ。文脈や文法から自由になれる詩の言葉。ストーリーや登場人物を運ぶために、「説明」という軛から逃れられない小説。(もちろん、実験小説、前衛小説、ポストモダン小説と呼ばれる作品の中には、その軛をぶっ壊しているものもあるけれど、ここではいわゆるひとつの読めばわかる小説のことを指していると思ってほしい)

 なので、自由奔放な言葉の国からやってきた詩人に対して、いささか不自由な言葉を扱う小説国に入国するに際して、どのようなパスポートを携えてきたのかを、つい問うてしまう。でも、たいていの場合、入国審査にひっかかることなく、別室に拉致されて「これはなんだ?」と問い詰められることもない作品を前にして、「フツーじゃん」と呟くことになるのだ。

 そもそも、「なんで小説を書くの?」とも思う。想像するに、詩があまりにも読まれないからなのではないか。あまりにも理解されないからなのではないか。小説が好きだけれど、詩も好きなわたしからすると、日本人の詩の言葉をないがしろにする態度に義憤を覚えないではないし、そういう危機的状況に際して、「もっと大勢の人に読んでほしい!」という祈りにも似た願いを抱いて小説を書く詩人の気持ちは理解できる。できるけれど、小説国の軍門にくだってどうするとも思うのだ。

 第三十一回歴程新鋭賞を『ダンスする食う寝る』で受賞した山﨑修平の詩を読んだ時、「いつか小説を書きそうだな」と思ったことを覚えている。自由度と純度の高い詩の言葉の連なりの中に、説明や接続を求める小説の不純さが少し混じっている。勝手ながらそんな感想を抱いたからだ。果たせるかな、山﨑修平は『テーゲベックのきれいな香り』というパスポートを持って、昨年末、小説国に入ってきたのである。

 これが、もっ、密入国したほうが良かったのではないかというほどの問題作で。別室に留め置かれて「こんなもの小説じゃないだろう!」と厳しいおとがめを受けるばかりか、出入国管理局に送られてしまうのではないかと心配になるほどの、そう、〈詩とは、異界に接続する扉だ。時間も空間も自由に往還する〉と確信する詩人の貌で書かれた小説になっているのだ。

「1 わたしの愛犬パッシュのこと 2028.4」という近未来の章から始まるこの小説で、作者の分身たる四十四歳になっている〈わたし〉は、〈東京都内のみで○○万人以上の死者、○○万人以上の負傷者〉を生んだ大震災に遭遇する。でも、いわゆるひとつの震災小説にはなっていかない。震災にかぎらず、日常的にクラッシュ&ビルドという形で変化していく東京が、この小説では〈わたし〉というフィクションの象徴として描かれているのだ。

〈わたしは他者によって形成される。わたしの悲しみも、わたしの喜びも、他者によって形成された概念を追体験しているに過ぎない。であるなら、わたしがわたしを語るとき、わたしの知覚している範囲で書くことに何の意味があるのだ〉

 だから、作者は〈わたし〉を解体しようと試みる。私小説というジャンルをクラッシュして、新しい何かとしてビルドすることを、この小説で試みているのだ。

 ユーハイム(たぶん)のドイツ菓子テーゲベックをくれて、幼い〈わたし〉に梅の花の香りを〈きれいな香り〉と伝えてくれた優しい祖母。自死した親友の〈R、あるいはL〉。愛犬のパッシュ。〈私立一貫男子校という、愛されて育ち、豊かな経済力と、「立派な」人に恵まれてきた〉のに高校を中退し、それから詩を書くまで十年間放浪の時間を過ごした〈わたし〉の青春。さまざまな過去の記憶が時系列を無視して生起しては薄れ、消えかけては輪郭を取り戻し、その都度、〈わたし〉は解体されていく。その都度、〈わたし〉は〈わたしは書く。/詩を書く。/小説を書く。/論文を書く。/書かないものを書く。/書かないことで書く。〉と己を鼓舞する、いましめる。

 その鼓舞といましめの中から太ゴシック体で立ち上がってくるのが、「詩とは小説とは何なのか、詩の言葉とは小説の言葉とは何なのか、詩人である自分が書く小説とはどうあるべきなのか」という真摯な問いかけなのだ。あまりにも難しい問いかけゆえに、作者自身も混乱している節すらある。でも、わたしは思う。その混乱の筆致こそがひとつの答ではないかと。正解という答ではなく、山﨑修平という詩人を体現する答なのではないかと。

 とりわけ、〈わたし〉の分身である虎子が登場して以降が笑っちゃうほど型破り。〈わたし〉の分身であるにもかかわらず制御不能になっていき、やがて〈わたし〉を呑み込む存在になっていく。そのドライブ感が素晴らしい。わたしには理解不能だけど、素晴らしい。素晴らしいことだけがわかる「4 虎子、それはわたし 2013.4」以降の展開なのだ。

詩だけにとどまらず、短歌、リリック、漫才のコントといったさまざまな言葉を小説国に持ちこんで、何とか物語にならんと足掻く小説の言葉と対決させる。アイデンティティと記憶の不確かさを、豊かな言葉でポリフォニックに実証検分してみせる小説になっているのだ。

 わたしは自分がこの作品を理解したとはとても思えない。でも――。〈幾人もの記憶、整合性の取れない会話、文章。それなのに、どうして見えてしまう瞬間があるのだろう〉という文章そのままに、わたしにも、幾度かその〈瞬間〉は訪れた。そのことが嬉しい。小説国に新奇の言葉を持ちこんだ山﨑修平のパスポートに、力強くスタンプを捺したい気持ちでいっぱいだ。

 

今回山﨑さんは、詩だけでなく、この『テーゲベックのきれいな香り』からも抜粋朗読してくださるのではないだろうか。どの場面を朗読してくださるだろう。耳から入ってくる『テーゲベックのきれいな香り』も、目で読んだ時同様に驚かせてくれるだろうか。わたしが一番それを楽しみにしている。皆さんにも楽しみにしていただきたい90分なのです。(文責・豊崎由美)

開催日時

2023年5月21日 日曜日 18時00分開演(17時45分開場)

安全を考慮し、ご参加者を20名(申し込み順)といたします。

場所はいつもの表参道の会場ではありません。密回避のため、広い会場を予定しています。

地下鉄表参道駅から5分の場所です。お申し込みの方には別途お知らせします。

感染状況の推移によっては、延期の可能性もあります。

 

youtube配信はありません。

bottom of page