十文字美信「常ならむ」

2017.9.16(土)

タイトルの「常ならむ」は、いろは四十七文字の内からとった。

存在するあらゆるものは、変わらずにそのままの形でとどまることは出来

ない。あるものは一瞬のうちに、またあるものは長い時間をかけてゆっく

りと変わっていく。そうして挙げ句の果てに消滅してしまう。写真だけが、

消えていくものを捉える資格を有している。何という奇跡だろう。

写真が他の表現ジャンルと違って面白いのは、現実の事象に出会わな

ければ何も始まらないことだ。作者のイメージや想像世界にひたすらす

がっても、それだけでは写真にならない。現在この時の、目の前に存在

する事象と関わることから写真が始まる。

ある日、突然何かを気付かされた気がすることがある。

こればかりは言葉で説明できない。

物事を順序立てて考えた末に導き出されたのではなく、そいつはまったく

突然にやって来る。答えではなく、形でもない。正体不明だが、私の気持

ちの中のゾワゾワ居座ったまま離れようとしない。面白いのか、可愛いの

か、恐ろしいのかハッキリしないまま、しかし、確かにやって来た。

心の中に生まれたものが何ものなのか、まだ何を伝えようとしてるのか

わからないが、その落ちてきた時の生々しい感覚だけを手がかりに、とり

あえず写真機を手に日常の場に踏み出して行く。初めはとりとめなく、手

応えも無いが、幾度か撮影を繰り返すうちにボンヤリした輪郭が現れ、現

れたカタチが主題に成長していく。

生きた写真にするためには、主題のある場合でも現場で予測出来ない事

態を取り込む気持ちの広さと柔軟さが必要だ。とはいえ、常に頭の中が

整理されてるわけではなく、例え主題に基づいてコトを進めている場合で

も忽然と全く別のモノの細部が見えてきたりする。この忽然と見えてき

たモノの細部が私の被写体であり、私の写真だと言える。

写真を撮る行為は、撮影者が被写体に対する身勝手な思い入れを断ち

切るためにあるように思う。劇的な要素を引き剥がして表面だけを見るこ

とが望ましい。被写体はいつも完璧な存在だから加える要素は何一つな

い。表現しようとして、決定的だと思う瞬間を強調することは本来の被写

体の姿から離れていくばかりだ。

目の前に存在した世界から意味を抜き出し、残された外見の細部を剥き

出しにする。

写真は被写体の細部に独自な世界が立ち現れているのを確認する唯一

の手法となる。

互いに少しの関係もない事物の表面に、秘められた感情さえもはっきり

読み取ることが出来るのも写真だ。

写真に映った被写体は実物よりもはるかに美しく、沈黙している故に不

気味だ。

被写体の細部それぞれは撮影者を凌駕している。結局、本当の信用出

来るのはありのままの外見だけなのだ。

 

​十文字美信

開催日時

2017年9月16日 土曜日 18時開演(17時30分開場)

お知らせ

 

多数の予約お申込みをいただきました。

予約受付を締め切らせていただきます。

ありがとうございました。