
古屋美登里朗読会
2016.11.19(土)

古屋美登里 (ふるや・みどり)
1956年、神奈川県生まれの翻訳家。
早稲田大学卒業後、「早稲田文学」の編集に従事。
20代から翻訳をはじめ、当初はコンピューター関連書やビジネス書、のちに英米の小説やノンフィクションを訳す。
10代後半から倉橋由美子(1935~2005)の薫陶を受け、個人的に親交を深め、倉橋の死後はその作品の復刊に献身。
エッセイ、書評、自作解説などを収録した『最後の祝宴』(幻戯書房)の編纂にたずさわるなど、
翻訳のかたわら倉橋由美子の精神の灯を守り続けている。
白い手袋を決してはずさず、他人が愛したものを盗んでは蒐集している語り手のフランシス。
部屋から一歩も出ず、テレビを見続け、虚構の中に生きる老女。全身から汗と涙を流し続ける体毛のない元教師。
人語を一切解さない犬女。「シッ」「あっちへいってろ」しか話さない門番。生ける屍のようなフランシスの父。
ヨーロッパのとある国の小さな町に建つ古い館を舞台に、ゴシックというよりはバロックと呼びたい歪んだ感性と、
反社会的な性格を持つ奇人フランシスのグロテスクなユーモアをまとわせた語り、彼が蒐集する品々にまつわる
寓話的エピソードの妙味が魅力の『望楼館追想』。
それなりの歴史を持つ小さな町エントラーラに生まれ育った双子の姉妹の魂の遍歴を追うことが、
すなわちエントラーラの歴史をたどる足跡となり、町で起こる大きな悲劇と小さな奇跡に立ち会うという
特権的かつ特別な体験へとつながっていく『アルヴァとイルヴァ』。
この2作で日本の海外小説ファンや、ストレンジフィクション好きにその名を知られるようになった
エドワード・ケアリーを、おそらく世界で一番愛しているのが古屋美登里なのである。
もちろん、2作とも古屋さんが訳している。
今回、この朗読会で取り上げてくれるケアリーの最新作『堆塵館』も、無論、古屋さんが訳している。
ケアリーもまた古屋さんに訳し続けてほしいと願っている。
世界で一番ケアリーの小説を愛し、理解する古屋さんと、古屋さんに全幅に信頼をおいているケアリー。
そんな2人が交わしたメールの一端を、朗読会で披露してくださらないかと、わたしはひそかに願っている者だ。
とはいえ、古屋さんはケアリーだけを訳しているわけではない。これまでの訳した本は、なんと64冊。
ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』のようなベストセラーもあれば、
デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』みたいな問題作もある。間口の広い翻訳家なのだ。
古屋美登里訳出作品の中で、ケアリーは別格として、わたしにとってもっとも印象深いのが、
タイの作家ラッタウット・ラープチャルーンサップの短篇集『観光』。その名前の長さにも驚いたけれど、
タイにこんな素晴らしい新人作家が存在しているのかという、世界文学の奥深さに触れた歓びを今も鮮やかに
蘇らせることができる。つまり、古屋美登里は、間口が広い上に小説の目利きでもあるのだ。
そんな日本を代表する翻訳家の一人が、宿命の人ともいうべき作家エドワード・ケアリーの小説を朗読し、
その魅力について語る。海外小説ファン必見必聴のイベントであるのは言うまでもない。(文責・豊崎由美)
美術のおまけ

